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幽霊でも出そうな銀座片側

幽霊でも出そうな銀座片側
絵葉書番号 Y66-009 
大分類 災害 
小分類 関東大震災
タイトル 幽霊でも出そうな銀座片側
★は「組絵葉書タイトル」
◇は発行元など
★組絵葉書「東京大震災絵葉書第一輯 八枚組」/◇婦女界社発行) 
*は撮影年
無印は絵葉書の投函年
 
*印は撮影年推定根拠
無印は投函年推定根拠
 
内容 <「銀座公式ウェブサイト」の「震災と震災復興」から要約>
「大正12年(1923)9月1日、関東大震災によって、明治以来の銀座の顔ともいうべき煉瓦街が倒壊したばかりでなく、ほぼ全域が火災で焼失してしまいます。その後、商店は結束して復興に向けて動き出す様子は、水上瀧太郎の小説「銀座復興」に感動的に描かれています。
沿道の商店は、バラック建築をたてて11月10日にそろって店開きすることを決めました。前衛アーティストたちが、バラックのファサードをデザイン、大正期の自由な雰囲気のなかから生まれたモダンなデザインで、これらが独特の銀座の風景をつくりだし、話題となったのです。
一方、東京市は震災復興計画を打ち出しますが、銀座の大きな変化は、晴海通りの拡幅と昭和通りの建設でした。
復興期の銀座には、デパートが進出が相次ぎ、1924年(T13)に松坂屋、がオープンし、全館土足入場、有楽町、新橋駅との往復無料送迎バス、屋上に動物園をひらくなど、新商法を次々と打ち出しました。
1925年(T14)に開店した松屋デパートの中央吹き抜けのある店舗には、水族館がありました。そして1930年(S5)三越開店と続き、1929年(S4)には、不動産賃貸額が日本橋を抜いて全国一位となりました。1934年(S9)には浅草から延伸してきた地下鉄がついに銀座まで開通し、繁華街の頂点である浅草の客が、銀座にも流れてくるようになりました。」 
備考  
モノクロ/カラー モノクロ/一部カラー